LRTを考える

富山ライトレール TLR0605号

 この本は去年の年末に買って、お正月もこの前の広島往復の間も読んだんですが、どうもしっくりこない。よく勉強された成果をコンパクトにまとめたよい本なんですよ。そういう意味では。それでしっくりこない理由をいろいろ考えてみてもよく分からないのですが、一つの手がかりとして、著者らの言う「LRT」の定義がよく分からないことがあるような気がするので、そのことについて、単なるメモですが、書いてみましょう。

 この本では、「はじめに」のところで、広辞苑の定義を引用し、「LRTの本質」は「曖昧ながらも連続性という言葉をキイワードとするトータルな交通システム」であって、「一言では定義できない、幅広い説明が必要になる」ので、LRTについて多面的に解説することによって、「漠然としているLRT概念が明確になるとともに、欧米においてLRTが普及している理由が理解されるはずである」とされています。
 つまり、LRTとは何か、二、三行では書けないが、この本を読んだら分かるということらしいのですが、全部読んでも分からない私のような人間のために、もう少し具体的に「LRT」とは何なのか、まとめてもらった方が親切なように思います。著者らは、「日本の場合、実際にLRTとして出来上がったシステムは、2010年の時点では、富山市富山ライトレールのみである」とされ、図表1-5でも海外の各都市について、LRT路面電車などを区別されているのですから、具体的な軌道事業などに照らして、それがLRTかそうでないかを判別可能な程度に抽象化された基準を持たれているのでしょう。したがって、それを紹介していただければ、LRTとは何か、一目瞭然だと思うのです。
 何で分からなくなるか、一例を挙げてみます。LRTとされる富山ライトレールLRTでない広島電鉄を「キイワード」である「連続性」を手がかりに比べてみると、JR線との接続数は広電の方がずっと多いし、富山ライトレールにあるフィーダーバスにしても、広島にもボン・バスとかさくらバスがあります。つまり、著者らのいう「LRTの本質」において、広島電鉄に遜色があるように感じられないのです。もちろん、広島にはアストラムラインもあり、他の路線バスもあるわけですが、それは広島という大都市の機能を維持するためのニーズがあるからそうであるだけで、広電の「連続性」を左右するものではないと思います。
 同じような規模の都市であっても、公共交通機関は、その都市の成り立ち、構造によって多様であり得るし、住民のニーズも異なります。現存する日本の路面電車の多くは、逆風の時代を耐え、その都市に必要とされる機能を満たそうと努力し、さまざまな制約の中で海外のよいものはとりいれつつ、進化を遂げてきました。それが著者らのいう「LRT」でないとしても、当然であるといえるでしょう。進んだ「LRT」、遅れた「路面電車」という図式的な理解をするのであれば、おそらく誤っていると思います。
 この本の全体から感じられる、海外にいいものがあるから日本にもつくりましょうという、それは海外のLRTのパネル展をやればLRTに関する理解が深まると考える、啓発主義的ともいえる態度とも通底するものがあると思いますが、一般論としてその必要性は否定しません。しかし、現実に日本でLRTを計画しようという場面では、そこを乗り越えないといけないのではないか。私は、海外のどこそこにあるものを、日本でそのまま再現することが、いつもいいことだとは思っていません。住民に必要とされる公共交通機関として、海外の知見の何を取り入れ、何を取り入れないか、それが日本に「LRT」をつくるのであれば、デザインにあたっての本当の課題ではないでしょうか。理解が浅く、誤解があるものと思います。ご批判を乞います。