映画「夕凪の街 桜の国」

広島電鉄 712号

 昔大きな映画館があって、今は超高層ビルになっているけれども、その一部が重厚な昔の映画館の建物を模している、その地下に100人前後入る小さなホールが3つ、そのうちのひとつで、「夕凪の街 桜の国」を見てきました。土曜日の朝のその映画館は、若い人が多いわけでもなく、年配の方が多いわけでもない30人ほどの観客が集まっていました。
 原作が評判の作品だと、どうしても映画は原作と比べられることになります。とくに原作がマンガで相当ビジュアルなイメージを持っていること、過去と現在の交錯に読み手の主体的な読み込みを要求することから、映画でどのように表現されているか、とても興味深く思っていました。
 映画では、ストーリーがきっちり組み替えられて整理され、時間的な飛躍も分かりやすく提示されていました。それは映画という表現媒体の特性として、目の前に映し出されていないことについて、思いを致せというのがどだい無理な話だから、当然の措置でしょう。原作を読むときの「謎解き」の面白さは減じられますが、それはやむをえないことでしょう。分かりやすくなっているのは、時間の移り変わりだけではなくて、例えば堺正章田山涼成に会うシーンでも、原作では誰か明示されずに、おそらくこれはこの人なんだろうと読み手に推測させるだけなのですが、映画ではいきなり自己紹介をしてしまいます。これも映画だと誰だか分からない人でシーンを進めるわけにいかないので、そうなったのでしょう。また、「誰々は誰々に似ている」という意味のセリフがいくつか出てきますが、登場人物は俳優さんなので、はっきりいって誰も似ていません。顔が似ているというだけでキャスティングするわけにもいかないでしょうから、これも映画にする以上やむを得ないのでしょうが。
 へそ曲がりなのでいろいろ書きましたが、そうはいいながら、全体としては原作の意図に忠実であろうとする姿勢が感じられました。原作のよさ、すなわちデリケートさは決して損なわれていないと思います。興味のある方はぜひご覧ください。
 電車のことを書いておきましょう。被爆電車651号が登場するシーンは、広島を訪れた旭と、後をつけて来た七波と東子が同じ電車に乗っているシーンです。予告編にも使われている、袋町歩道橋から3号の方向幕を出して宇品方面へ向かう651号とその車内が出てきます。映画の中では被爆電車について何の説明もないので、広島の方か電車マニアでなければ、それが被爆電車であることは、おそらく気付かないだろうと思います。でもそれでいいんでしょう。映画には分かる人だけが分かるシーンがあってよいのです。
 原爆が落とされたとき、小さくて水戸に疎開していたという旭と651号は、ほぼ同世代です。旭は大学生から社会人になって10年あまりを広島で過ごしました。当時の相生橋の電停から電車に乗って、大学へ通ったはずです。だから被爆電車も651号のことも知っているでしょう。亡くなった姉の知り合いを訪ねて、広島へ行った旭は自分と同じ時代の空気を吸った651号に乗り合わせて、何かを思っていたことでしょう。